2025年11月16日 巻頭言
「キリストの愛が私たちを捕らえているからです。」
『キリストの愛われらに迫れり。』
コリント人への手紙第二 5章14節
気候変動の激しい季節も晩秋の気配を感じる頃となりました。年内の聖日礼拝も少なくなりました。教会でもクリスマスの準備に入ります。今朝の礼拝の祝福を祈りながら、心から神の聖名を崇めましよう。
今朝は、長い間私の心を占めて来たみこば、「キリストの愛われらに迫れり。」(文語訳聖書)からです。このみことばは使徒パウロの全き愛(愛の支配)が彼の全生涯を占めていた信仰と捉えています。小さいながら、今日に至るまで私の信仰生涯に於ける根幹となり、全行動の源泉となり、目指して来たみことばです。
彼は主イエスの「選びの器」として、苦しみに合うことが言われています。
その一例がロマ五・二~五節です。苦難が悲喜こもごも押し寄せる中で、「希望は失望におわらない」。なぜか。「私たちに与えられた聖霊によって神の愛が注がれているから。」その愛に迫られて生きたのがパウロでした。彼に学ぶ事は、私たちの信仰の礎は何に据えられているのか「霊的経験の実質」を問うものです。
「キリストの愛」が、彼を変えたのは、
⑴ 主観的な面から。十六節「今後、肉にしたがって、人を知ろうとしません」。この前後に見る「肉と誇り」は、肉・人間的なもの、自我性は誇りを生み出し、十七節「誰でもキリストのうちにある…」、即ち、キリストと一体の中にある時、「キリストの愛」のご支配の状態にあると言います。
⑵ 客観的面から十四、十五節「一人の人がすべての人のために死んだ…」を読むと、二つの聖句が浮かびます。ヨハネ三・十六節「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された…」とマタイ二七・四六「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。前節「お与えに」は「遺棄する」であり、後節は「見捨てる」です。そこにあるのは、父は子に背を向け、子は父に叫ぶ痛みです。それはまさしく、罪人に対するさばきの光景です。そこに私を見るのです。
⑶ 体験的な面からエペソ二・三節以下にあるように、私は「生まれながらに怒りの子」でした。十字架のキリストを見上げる時、神の怒りの峻厳さと、神の計り知れぬご愛を見るのです。
罪の代価としてのキリストのご受難の姿に私自身を見せつけられるのです。今は「自分のために死んでよみがえられたお方のために生きる。キリストの愛に迫られて(英)
牧師 田中英
2025年11月16日 聖日礼拝式次第
小礼拝 9時 荻野と兄
聖日礼拝 11時 吉田潔兄 髙橋姉
前 奏
招 詞 イザヤ書43章1節
会衆賛美 聖歌396 十字架のかげに
会衆賛美 イエスの血潮で
主の祈り
交 読 詩篇22篇1~5節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 コリント人への手紙第二5章11~21節
説 教 キリストの愛 田中英牧師
会衆賛美 聖歌104なんという愛だろう(小礼拝)
聖歌114さかえの主イエスの(聖日礼拝)
献 金
頌 栄 聖歌376 父御子御霊の
祝 祷
報告
感謝祈祷 奏楽