2024年4月14日 巻頭言
「やめよ。知れ。わたしこそ神。
わたしは国々の間であがめられ 地の上であがめられる。」(新改訳2017)
「汝ら 静まりて 我の神たるを知れ」(文語訳)
詩篇 46篇10節
詩篇46篇の背後にある出来事は、イザヤ書36,37章に記されるアッシリアのエルサレム侵攻です。
当時の超大国アッシリアに包囲されたエルサレムは滅亡寸前。城内は打つ手なく狼狽するばかり。アッシリア軍は城外からエルサレムの人々に聞こえるように脅し文句を並べます。これに対してエルサレムの高官は懇願します。エルサレムの住民が聞いているからユダの言葉では話さないでくれと。民の動揺を誘うアッシリアとしては馬鹿げた願いです。当然聞き入れるはずもなく、ますます激しい言葉で揺さぶります。
この状況にヒゼキヤ王も為す術はありません。彼はひたすらにイスラエルの神に頼り、祈ります。
そこに神は預言者イザヤを遣わしてアッシリアを退けることを約束します。そして結果はその通りになりエルサレムは絶体絶命の危機を脱します。
神の前にひれ伏したヒゼキヤ王はどんな人物でしょうか。彼は良き王でしたが、立派な人物であったと、手放しでは言いがたい一面があります。彼は息子たちがやがてバビロンに囚われると預言されたとき、自分が生きている間にそのことが起きないと知って安堵します(イザヤ書39章)。自らの保身を大事とした姿勢で、リーダーとしては残念な反応です。ヒゼキヤ王は決して英雄ではなく、器が小さい小心者でした。
そんな彼がアッシリアの危機から救い出されたのはなぜでしょう。逆に、アッシリアが退けられた理由はなんでしょうか?
それは、神を畏れたか、神を侮ったか、その一点に尽きます。
神は、ご自身を畏れる人を尊びます。その人を守り、支え、危機や恐怖から救います。その人が立派であるか、何事をなしたかではありません。神の前に遜って助けを求める人が〝立派な信仰者〟です。信仰の最優先は、業績を上げることではなく、自分の弱さもさらけ出し神の前にひれ伏すことです。その人に神の恵みと助けは注がれます。神の前に静まりましょう。
主任牧師 荻野泰弘
2024年4月14日 聖日礼拝式次第
第1礼拝 9時 中西け兄 荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野牧師 榊原 姉
前 奏
招 詞 イザヤ書43章19節
会衆賛美 聖歌134
会衆賛美 主はぶどうの木
主の祈り
交 読 詩篇121篇1~8節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 詩篇46篇1~11節
説 教 主の前に静まる
荻野泰弘牧師
聖 餐(第2礼拝)
会衆賛美 聖歌158
献 金
頌 栄 聖歌376
祝 祷
報告
感謝祈祷 奏楽
※第1礼拝は、礼拝後に聖餐式