2022年3月6日 巻頭言
すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
マタイの福音書 25章40節
マタイ25章は24章に続いて世の終わりのときについてのイエス様の教えです。
24章の終わりからたとえばなしが続きます。これらはいずれも、主が再び来られるときに、主に喜ばれて天の御国に入れられる人がどんな人で、そうでない人がどのような人であるかを示します。共通するのは、再臨のときに問われるのは、人がどのように生きてきたかということです。もちろん、私たちの救いはイエス・キリストへの信仰によって得られます。行いによるのではありません。マタイが問うているのは、救いの恵みにどう応答したかということです。
「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7章21節)
別の言い方をすれば、イエス様によって救われて本当に主を崇めて生きる人の生き方には実が生まれるということです。私たちは自分がどんな生き方をしているか、それを生み出す自分の心が主とどんな関係にあるかを自分に問う必要があります。
25章31節以降は最後の審判の様子です。そこで問われるのは、衣食住といった基本的な生活に苦労をする弱者を助けたかということです。そのような人々を顧みることは主に仕えることだというのです。
主は人間を救うために世に来られ、低い者、最も小さい者となられました(ピリピ2章6~8節)。そして主は、世の最も小さい者たちを「兄弟」(40節)と呼び、共に生き、救いを達成するために働いておられるというのです。そこにはまさしく十字架のイエス様が見えてきます。
だからこそ、私たちは問われるのです。あなたは主の思いになんと応えるか?と。
教会がこれに応えるために展開してきたのがディアコニアの働きです。それは直訳すると「仕える」「奉仕」です。主の憐れみの心を世にあって実践する働きです。「塵(灰)をかぶる」という意味があり、働き手の心が問われることでもあります。世には傷ついている人が溢れています。教会は弱さにある人々の必要に応える存在として主の愛を示すことが期待されています。
主任牧師 荻野 泰弘
3月6日 聖日礼拝式次第
第1礼拝 9時 穂谷牧師 荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野牧師 美名子姉
前 奏
招 詞 イザヤ書45章22節
会衆賛美 聖歌500(1,2節)
会衆賛美 主はぶどうの木(1回)
主の祈り
交 読 詩篇100篇1~5節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 マタイの福音書 25章31~46節
説 教 小さい者たちを顧みる
荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌614(1,3節)
献 金
頌 栄 聖歌376
祝 祷
報 告
感謝祈祷 奏楽