2022年9月18日  巻頭言

そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。

ルカの福音書 9章30,31節

人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。

ルカの福音書 18章32,33節


 出エジプト記の英語名は「Exodusエクソダス」で、ギリシャ語「エクソドス」に由来します。本来の意味は「出て行く」「出発」「この世を去る」で、冒頭の聖句では「最期」と訳されています。
 聖書はイエス様の十字架と復活を出エジプトに重ねます。神学的には「第3の出エジプト」と呼ばれ、十字架と復活による贖いの完成は、イエスを主とする神の民の新たな歴史の始まりです(ちなみに、第2の出エジプトはバビロン捕囚からの解放)。
 では、イエス様の出エジプト、新たな出発とはどのようなものだったでしょう。手がかりとなるキーワードは「引き渡す」です。
 イエス様は私たちの罪の贖いのために、過越の子羊として御自身を十字架に献げなければなりませんでした。そのためにイエス様は十字架に向かって自ら毅然として進んでいかれました(ルカ九51)。
 しかし、いよいよ十字架の受難の道を辿るとき、その身は裏切り者と反対者の手に「引き渡され」、他人のなすがままにされました。神の救いの計画を成し遂げるという意志を持ちつつも、導かれるままに身を委ねたのです。聖書は、神がイエス様を死に「引き渡した」ことも告げています(使徒二23)。つまり、イエス様は他人のなすがままにされるようで、実は、神の深いご計画に身を委ね導かれたということです。その結果、十字架の贖いは成し遂げられました。
 イエス様の生涯は能動的に活動することから、最期は自らを人の手(実は神の手)に完全に委ねる受動的なものへと変化をしました。これは私たちの生涯と重なります。 人は若いときには自由に活動します。しかし、年齢を重ねると肉体は衰え自由が利かなくなり人の手に頼らざるを得なくなります。それは寂しさを伴います。けれども、キリスト者にはそこで結ぶ実があり、神の栄光を現わすのです(参考 ヨハネの福音書二十一1819使徒ペテロの生涯)。


主任牧師 荻野 泰弘

2022年9月18日  聖日礼拝 式次第

第1礼拝 9時  穂谷牧師  荻野し兄
第2礼拝 11時  戸梶姉   髙橋(美)姉

招  詞 イザヤ書43章1節
会衆賛美 聖歌33(1、2節)
会衆賛美 大いなる方に(1回)
主の祈り
交  読 詩篇23篇1~6節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 ルカの福音書 9章28節~31節, 18章31節~33節
説  教 出エジプト記番外編
     主の十字架とこの世からのエクソダス
      荻野泰弘 牧師
会衆賛美 聖歌211(1、2節)
献  金
頌  栄 聖歌376
祝  祷
報告
後  奏 感謝祈祷