2022年11月20日  巻頭言

「こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。」

出エジプト記 32章35節

 自分の罪深さを自覚して「自分はどうして救われたのだろう?」と不思議に思うことはないでしょうか。救われてもなお欠けだらけで失敗が多い自分自身を思うと「こんな者が赦されていていいのか」と戸惑うのです。けれども、キリストの十字架と復活による贖いは、神に信頼する者に罪の赦しと神の子の資格を与えます。それは神のことばである聖書が約束していることです。
 アロンはモーセの同労者としてイスラエルの民を導き、大祭司として神の民の先頭に立った人物ですが、彼も同じ問いを心に抱いていたのではないかと想像します。
 イスラエルの人々が神に背を向けて偶像を求めたとき、アロンはその声に負けて金の子牛の像を造りました。主は人々のその行為を許さず、三千人もの人を罰して命を奪いました。けれども、アロンは罰せられず、赦されて大祭司の立場も守られました。
 アロンはその後、大祭司として主への礼拝の奉仕の中心を担います。民を代表して罪の赦しのためにいけにえを献げました。
 彼はいけにえを献げるたびに自分がどこから救われたかを思い起こしたでしょう。
 「大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます」(ヘブル5章2節)
 アロンの失敗は見逃されるものではありません。しかし、自らの罪深さ、そして神の赦しの不思議を知るからこそ人々の罪に寄り添い、神の赦しへと導くことができたのです。私たちも同じようにこの時代に召されているのではないでしょうか。
 アロンとイスラエルのために神に赦しを求めたのはモーセでした。モーセのとりなしによって神は怒りを収めました。モーセはアロンとイスラエルを見限って自分だけが祝福されるのをよしとせず、身を挺してとりなしをし、山を下って人々のもとで過ちをただしました。モーセの姿にイエス様を見ます。罪人を見捨てず、天の栄光を捨てて受肉し、人と共に住まれたイエス様は、ご自身を罪の赦しのいけにえとして十字架に献げました。私たちはこの御方によって今、罪赦され、生かされています。私たちがこの時代にあって罪人の隣人となるためです。
 アドベントを迎えます。真の大祭司であるイエス様が、かつてこの地上に来られ罪人のためにご自身を献げられたことを覚え感謝をもって過ごしましょう。

主任牧師 荻野 泰弘

2022年11月20日  聖日礼拝 式次第

第1礼拝 9時  穂谷牧師  荻野し兄
第2礼拝 11時  荻野牧師  髙橋(美)姉

招  詞 イザヤ書60章2節
会衆賛美 聖歌502(1、2節)
会衆賛美 イエスの血潮で(1回)
主の祈り
交  読 詩篇51篇10~17節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 出エジプト記 32章1~14節
説  教 罪を犯したアロン
           荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌472(1、2節)
献  金
頌  栄 聖歌376
祝  祷
報  告
後  奏 感謝祈祷