2022年12月11日  巻頭言

私のたのましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。

ルカの福音書 1章46~55節、1章26~38節

 今朝は『マリアの賛歌』と題してメッセージを取り次ぎます。
 マリアの賛歌からは、彼女の心霊的経験から生じた信仰の驚きと喜びが溢れる感動が伝わってきます。この賛歌は『旧約聖書の最期の調べが、イエスの誕生の序曲となるとは、実にふさわしい』とありました。マリアにとって受胎がイエスの誕生の序曲とすると、当然、母としてたどる信仰に生きた終曲・フィナーレ=最終楽章があります。
 第一の楽章は、受胎と神への賛歌です。
 「私のたましい、私の霊」は、彼女の全人格が込められた表現であり、聖霊による受胎告知を受け入れた信仰が賛歌の源泉と見ています。
 第二の楽章は、具体的な神のあわれみに対する喜びと感謝の賛歌です。 
 この賛歌には「あわれみ」が二回述べられており、動詞的な救おうとする行為を表わしています。その「あわれみ」は、
 ①卑しいはしために対するもの ②大きなことをしてくださった ③どの時代の人も幸いな人と言われること ④主を恐れる者に対する ⑤自らの民への約束をいつまでも忘れないなどが歌われています。
 第三の楽章は、聖書の「あわれみ」です。これはヘブル語で「ラハミーム」で「胎」を表わす同じ語の「ヘム」から派生した、母の胎から生まれた…わが子への切るに切れない愛と思いやりの感情と言います。
 不忠実な神の民に対するあわれみ(詩篇  七八・三八参照)「自分の胎の子をあわれまないだろうか。…このわたしはあなたを忘れない」神。(イザヤ五九・十五参照)
『神のあわれみは。神の偉大なる愛を源泉とする。』(一聖徒の言葉)
 第四は最終楽章=フィナーレです。祝福を受けた母マリアの信仰です。彼女の最期の登場は福音書の終わりと使徒の働きの始めです。シメオンの予言通り、彼女「自身の心さえも、剣が刺し貫くことになる」時がきて、マリアは御子イエスの十字架の傍に立たされました。死んで葬られ、甦えられ、天に帰還される御子イエスを見上げました。弟子たちと祈りを共にし、聖霊の傾注の場に居合わせたのは当然視されるでしょう。甦り生ける神の御子イエスは、今や人の胎を超え聖霊より人の心中に宿るお方となりました。歴史家は現代の教会をヨハネ黙示録三章の終わりの「冷たくもなく、熱くもない」ラオデキヤ教会の姿だと指摘します。戸の外に立ち、心の扉を叩くイエスの姿にいかに応えるか。アドベントに熟慮したい。

田中 英 師

2022年12月11日  聖日礼拝 式次第

第1礼拝 9時  荻野牧師 荻野し兄 
第2礼拝 11時  荻野牧師 榊原姉

招  詞 イザヤ書49章13節
会衆賛美 静かに眠れる(1、3、4)
賛  美 大いなる方に(1回)
主の祈り
交  読 詩篇146篇5~10節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 ルカの福音書 1章46~55節
説  教 マリアの賛歌
           田中 英 師
会衆賛美 みかむりをもなれは捨てて
(1、3、4節)
献  金
頌  栄 聖歌376
祝  祷
報  告
後奏 感謝祈祷