2024年6月30日 巻頭言
「イエスは彼らにこう言われた『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。』」
マルコ福音書 2章13~17節
今朝の礼拝の御用は主任牧師のピンチヒッターです。この礼拝でのお話は単純です。『教会ってどんなとこ?』という題です。
聖書の箇所は、イエス様が活動の初期の頃です。収税人マタイはイエス様の弟子となりました。マタイはイエス様を夕食に招きました。取税人や罪人と呼ばれていた人たちと一緒に食事をしていた時の出来事です。
この記事から、私は聖書の教えるキリストの教会を紹介します。それはこの記事の中にキリストの教会の内容が見事に提示されていると思うからです。
キリストの教会とは一言で『イエス様に、従っている人々の集まり』と言えます。
「従う」とは「同じ道を歩む」という意味です。イエス・キリストに救いを見出した人々、キリストに自分を救う能力を見出し、キリストと同じ道を歩むと決めた人たちの集まりです。
イエス・キリストに従い始めた人たちは、主イエス様の中に何を見出したのでしようか。
第一に、主イエス様の共感能力です。
イエス様は当時の下層階級の人たちの中に入って彼らと対話し、行動を共にされた唯一の方でした。その行動が人々の共感を得させたのです。正義を振りかざす宗教家をも恐れず、彼らのありのままを受け入れ、愛されたのです。イエス様の共感能力は、接する一人一人の中に現わされています。イエス様に従っている人というのは、そんなイエス様が私たちのために十字架にかけられ、死んで三日目に甦って、今も生きて共感能力を発揮していてくださることを感じ取っている人たちだからです。
第二に、主イエス様の洞察能力です。主イエス様は、接しなさるその人の内側(心の中)の実質を見抜いて指摘し、いましめ、矯正されます。愛するゆえの厳しさがそこにあります。キリストの教会は、罪を知り、その罪から救われた「罪人のかしら」であると確かな証しを持つ人たちが感謝と賛美をささげる集まりです。
第三に、主イエス様の救霊能力です。
正しいと思っていた人が、罪人となり、罪人が義しい人とされる。十七節は、肉体をいやす名医はいますが、心の罪から救う名医はイエス様です。この方の十字架の贖いの恵みゆえに、主イエスに従う生き方とされた人たちの集まりです。
田中 英 師
2024年6月30日 聖日礼拝式次第
プレイズサンデー
第1礼拝 9時 荻野と兄 荻野し兄
第2礼拝 11時 山本実姉 髙橋美姉
前 奏
招 詞 詩篇32篇8節
会衆賛美 聖歌584
心にあるこの安きを
主の祈り 口語訳(週報4面参照)
交 読 詩篇36篇5~12節
礼拝祈祷
使徒信条 口語訳(週報4面参照)
会衆賛美 All in all
会衆賛美 主はぶどうの木
聖書朗読 マルコの福音書 2章13~17節
説 教 教会ってどんなとこ?
田中 英 師
会衆賛美 聖歌399
カルバリ山の十字架
献 金
頌 栄 聖歌376 父御子御霊の
祝 祷
報告
感謝祈祷 奏楽