2024年7月28日 巻頭言
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
マタイ福音書 11章28~30節
今朝は、私の生涯を決定づけた聖書のみことばをお伝えします。それが冒頭に掲げたマタイの福音書十一章二十八節です。
私は個人的には、聖書全体を集約的に捉えるみことばとして、『万民の聖句』ヨハネ福音書三章十六節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と、このマタイの福音書十一章二十八節を挙げます。この二つのみことばは聖書全体の福音の真理を代表する個人的霊的経験の双璧だと捉えています。前句は御子イエスによって現わされた神の愛であり、後句は神の愛に秘められた究極的(永遠的)安息への約束と招待と見ているからです。
私が生まれて初めて二十八節のみことばに接したのは、路傍で受け取った一枚のキリスト教集会のチラシに書かれていました。その集会に出席して入信以来、この約束に安んじてもうすぐ六十四年になります。
主イエス様の招きです。「わたしのもとに来なさい」。でも複雑な思いが心を駆け巡るでしょう。前節のイエスの祈りのように「幼子」のようなありのまま単純に、真っ直ぐに頼り行く時、招きの言葉は実現します。
一、イエス様は私たちの悩みの同伴者です。
私たちと同じ人となり、罪を他にして私たちと同じ体験をし、「生きる悩みをつぶさになめ」その重荷と疲労をよく知っておられます。
二、イエス様は私たちの重荷と疲労の根本原因である罪を分からせ、その解決者です。
私たちには解決も解放もできない行為としての罪も、その源である心の内にある真の神を退ける本質的な罪の重荷をも罪なき正しいお方(キリスト)が悪い罪人の身代わりとなって、その罪のために十字架に死なれたのです。この事が私個人の罪のためと悟り、罪を悔い改めてイエスを信じる時、心は安んじます。
三、イエスは私たちを愛しておられます。
私たちの重荷を負われた主イエスの十字架を見上げる時、そこに主イエスの愛を見ます。
田中 英 師
2024年7月28日 聖日礼拝式次第
第1礼拝 9時 中西け兄 荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野と兄 髙橋美姉
前 奏
招 詞 イザヤ書60章2節
会衆賛美 聖歌492 主イエスのみそばに
会衆賛美 大いなる方に
主の祈り
交 読 詩篇16篇1~11節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 マタイの福音書 11章28~30節
説 教 キリストの招き
田中 英 師
会衆賛美 聖歌488 神のたもう安けさは
献 金
頌 栄 聖歌376 父御子御霊の
祝 祷
報告
感謝祈祷 奏楽