2024年8月25日  巻頭言

「父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけをした。」 

ルカの福音書 15章20節

 今朝のお話は有名なルカ福音書十五章の三つのたとえのお話です。特に十一節以下の父と息子の部分が中心です。      
 『父の心のたとえ』という題にしました。何と言ってもこのたとえのクライマックスは、冒頭のみことばです。私が教えられて来た一つのことは、『神のお心の内を外側から知るのではなく、内側に入って神のお心を知ること』でした。
 変わり果てて帰って来た息子を「見つけてかわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口付けをした」。「駆け寄る」父の姿に「極みまで愛される」神の愛に感動します。
 三つのたとえのいずれも、神の心のうちにあるのは、失われていた一人の人が、罪を悔い改めて神に立ち返ることへの喜びです。
 主イエスのお話の発端は、イエスのお話を聞こうとする取税人、罪人との食事をされたことへの回答が三つのたとえです。
 第一のたとえ。一人の価値です。迷い出た羊を羊飼いの囲いに連れ戻すことです。一人の失われた人を捜し出して救うための犠牲を惜しまない主イエス様の姿です。
 第二のたとえ。失われた一枚の銀貨です。神にとっての価値です。神のお心の内には一人として価値のない人はいないのです。
 第三のたとえ。失われた息子の話です。「ある人に二人の息子がいた」とは、父なる神と一人の人は、人格的な交流を基礎として存在し結ばれているからです。息子が生きるすべては父に負うているように、人間が生きることは、神を起源とします。
 弟息子は父から受け取るべき財産と持って遠国に生き散財してしまいました。父との離反は、神と人間との関係が切れたことです。それを「罪」と言います。その時から人は霊的に死に、神とを結ぶ霊性を失いました。私たち人間はあまりにも遠国に来たために神を忘れました。神でない神を崇める者となりました。息子のように真の神のいない人生は「はかない楽しみ」におぼれ死に至ります。
 「しかし、彼は我に返って言った『父のところには…。」彼が気づいたのは「父」であり、「父に対する罪の自覚」でした。罪を悔いて父のもとに帰って行った時、彼を見つけて、かわいそうに思い駆け寄ったのが父でした。それは無条件の赦しでした。家に迎え入れ子として歓待したのです。「可哀そうに思い」は、別訳の言語では「胎」を意味する言葉と言います。神と人との愛で結ばれた関係こそこのたとえの真意です。

田中 英 師

2024年8月25日  聖日礼拝式次第

第1礼拝 9時  中西け兄  荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野と兄  髙橋美姉

前  奏
招  詞 マタイの福音書11章28節
会衆賛美 聖歌151 たえなる命の
会衆賛美 主はぶどうの木
主の祈り 
交  読 詩篇32篇1~7節
礼拝祈祷 
使徒信条 
聖書朗読 ルカの福音書15章11~24節
説  教 父の心のたとえ
            田中 英 師
会衆賛美 聖歌421 父なるみ神に
献  金
頌  栄 聖歌376 父御子御霊の
祝  祷
報告
  感謝祈祷  奏楽