2022年3月20日  巻頭言

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

ヨハネの福音書 15章5節

 最近の世界情勢や私たちの周りの出来事を見るときに、自分が何に拠り頼みながら生きるべきかを問われている気がします。今日は私たちが真に拠り頼むべきところは何なのか見ていきたいと思います。
 今日の箇所はイエス様が十字架にかけられる前の最後の晩餐の箇所です。その中でイエス様は弟子たちに最後の教えを語られました。その一つが「ぶどうの木」のたとえです。この教えが語られたとき弟子たちは何に拠り頼んでいたでしょうか?それは自分の地位(ルカ22章24節)や自分自身(ヨハネ13章37節)でした。私たちも自分の地位やお金、そして自分自身に拠り頼んで生きることがあります。勿論生きるためにお金や健全な自信を持って歩むことは必要です。しかしこの世のものは有限で、いつかは無くなってしまいます。私たちが真に拠るべきところは他にあるのです。
 それでは真に拠るべきところはどこなのか。それは「イエス様の愛」です。イエス様はここでご自身をぶどうの木、弟子たちを枝とたとえられました。枝は木にくっついているもので、あくまでも主体は木です。何かしているわけでもなくただ木にとどまっているだけで栄養が運ばれてきます。それと同じように私たちもイエス様に拠り頼みその愛に留まるときに必要な恵みが注がれるのです。またイエス様の愛に留まるというのは決して個人的なもので終わりません。贖われた私たちは木に枝が結び合わされているように、イエス様をかしらとした一つのからだである教会に結び合わされています。教会という一つの共同体としてイエス様の愛に拠り頼んでいるのです。
 しかし真に拠り頼むべきところを知っていても私たちが地上に生きている限り、イエス様を常に拠りどころとすることは難しいように感じます。様々な価値観がある中でイエス様の愛を忘れ他のものに拠り頼んだり、自分自身しか信じれないと思うことがあるかもしれません。そのような時に「洗礼を受けたこと」を根拠とし、「礼拝」を通して神様の恵みを思い起こすことを大切にしたいと思います。神様が備え招いて下さっている礼拝を通してイエス様の愛を思い起こし、その愛に拠り頼んでいく事を絶えず確認し日々歩んでいきましょう。

修養生 林 眞光

3月20日  聖日礼拝式次第

第1礼拝 9時  荻野牧師 荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野牧師 美名子姉

前  奏
招  詞 イザヤ書45章22節
会衆賛美 聖歌504(1,2節)
会衆賛美 主はぶどうの木(1回)
主の祈り
交  読 詩篇25篇1~5節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 ヨハネの福音書 15章1~11節
説  教 私たちの拠るべきところ
            林眞光 修養生
会衆賛美 聖歌518(1,3節)
献  金 
頌  栄 聖歌376
祝  祷
報  告
後  奏 感謝祈祷