2023年8月6日 巻頭言
「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、
嘲る者の座に着かなかった者」
詩篇 1篇 1節
クリスチャンの聖言と霊想を学べる聖書の箇所は詩篇だと思い、今回は第一篇の聖言に仕えたい。第一篇は、詩篇全体の序曲である。今朝は「幸いなことよ」から四つの点を取り上げたい。
第一は、神との純粋な関係である。K師によると、「これは、ヘブル語の『アシュレー(真っすぐに歩く)』で真の幸いは『神に向かって真っすぐに歩くことである』」。古い英語訳は「ブレシッド」(Blessed=恵まれた、きよめられた、神聖な{きよらかで汚れのないの意})で始まる。T師は「1節は、生活、思想、交友に純潔であることである」と言っている。
第二は、その内容が、「罪」の問題である。悪しき者は「何をする者」か。「歩む、立つ、座に着く」の各々が神との関係を阻害しているのが「罪」である。「罪は、神のみこころの代わりに、人間の意志を生涯の中心に据えることである。諸国の民の反逆は、個々の霊魂の罪の絵画である」とは沈思に値する。
第三は、幸いな人とされたダビデに見る彼の体験から。詩篇五一篇は、ダビデのバテ・シェバとの罪を第二サムエル十一、十二章に見る。ダビデの二重の罪。行為の罪の赦しを求める祈りと、行為の源にある罪の性質に気づいた祈りである。その結果を三二篇の告白的賛歌に見る。
第四は、新約の意義と証し。パウロは、ローマ四章にダビデの「幸い」の箇所を引用している。ローマ三~五章に信仰による義認(赦し)と、六~八章に信仰による聖化(潔め)を体験に基づく内容を記している。「聖徒のうちで最も小さく、無学な凡人」の私にも同じ道程を歩ませてくださった。
罪の赦しの後に心中に宿る罪の性質に悩み、やっとローマ七章二五節「私たちの主イエス・キリストを通して(原意=十字架の贖いの媒介のゆえに)神に感謝します」。ローマ八章一~十一節の聖言に安んずることを得た。
赦される罪、潔められるべき罪を理解し解決ができるとき、一篇二節は御霊による霊想の深化と共に聖言の人格化に近づける。
田中 英 師
2023年8月6日 聖日礼拝 式次第
第1礼拝 9時 荻野牧師 荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野牧師 髙橋美姉
招 詞 ゼカリヤ書2章13節
会衆賛美 聖歌631
会衆賛美 鹿のように(2回)
(歌詞は週報4面に掲載)
主の祈り
交 読 詩篇32篇1~11節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 詩篇1篇1~6節
説 教 幸いなことよ
田中 英 師
会衆賛美 聖歌243
献 金
頌 栄 聖歌376
祝 祷
報告
後奏 感謝祈祷