2024年7月14日  巻頭言

すると、王は彼らに答えます。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さな者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」

マタイの福音書 25章40節

 人間の歴史を紐解くと、医療・教育・福祉などの人を支援する分野で、教会とクリスチャンは大きな役割を果たしてきました。日本でも、明治時代以降に教会や宣教団体が病院や学校、福祉施設を設立して、貧しい人を助けたり、人材を育成してきました。
 マタイ25章には「羊と山羊のたとえばなし」によって、困窮する人を支援することを主が望んでおられることが記されています。それはこの箇所に限らず聖書の一貫した教えの一つで、その根底には、神の愛と憐れみがあります。
 ある神学者は「羊と山羊のたとえばなし」から、「主は人々の痛みの中に共におられる」と言いました。福音書には、キリストがこの地上で貧しい人や虐げられている人と共に生きたことが書かれています。そもそも、キリストご自身が罪人を救うために、この世の最も小さな者、貧しい者となりました。主は、今も、罪の世で苦しみ、悩み、痛む人々を心配しています。
 私たちキリスト者は、キリストが貧しくなられたことで神の愛を知り、救いに導かれ、慰めを得ました。貧しさや弱さとは、神の愛が伝わる機会となります。だからこそ神の愛を知ったキリスト者が、この世の最も小さい存在に目を留め、神の愛と慰めを届けることが望まれます。
 ただし、そのことを実践する時には注意しなければならないことがあります。
 神の愛の業が私たちの功績になってはなりません。見返りを求めることでもありません。神の愛の業は、私たちにとって愛の神への感謝の応答として実践されることです。支援を受けたら信仰を持つと考えるのも違います。信仰をギブ・アンド・テイクで考えるとおかしなことになります。
 また、大きなことをするのでもありません。「最も小さい者たちの〝一人に〟したこと」(40)とあります。この目に留まる一人の人の存在を大切にすることが肝要です。
 こうした働きをディアコニアと言います。「仕える」という意味です。語源は「塵(灰)の中を通る」です。困難の中にある人は、時に感情がたかぶったり、問題行動を起こします。それに対応するためには、支援する側に「塵(灰)をかぶる」覚悟が求められます。それは容易ではありません。
 しかし、キリスト者だからこそできるのです。キリストが私たちのために十字架の痛みを負ってくださったことを知っているからです。この道に生きるためには、神を礼拝し、私たち自身が神の命に触れ、神の慰めを受け取ることが必要です。そこに神の慰めが現れます。

主任牧師 荻野 泰弘

2024年7月14日  聖日礼拝式次第

創立記念特別礼拝
第1礼拝 9時 荻野牧師  荻野し兄
第2礼拝 11時 吉田潔兄  榊原 姉

前  奏
招  詞 イザヤ書60章2節
会衆賛美 聖歌36
ながまことは大いなり
会衆賛美 主はぶどうの木(週報3面)
主の祈り 
交  読 詩篇103篇6~14節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 マタイの福音書 25章34~41節
説  教 最も小さい者たちに仕える
              長下部 穣 師
(第1礼拝 慰めを届けるキリスト者 荻野泰弘牧師)
会衆賛美 聖歌614 
主の愛のながうちに
献  金
頌  栄 聖歌376 父御子御霊の
祝  祷
報告
  感謝祈祷  奏楽