2019年3月3日 巻頭言
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」
コリント人への手紙第二 1章4節
クリスチャンにとって苦しみの体験は、自分が神の慰めを体験する機会となるだけでなく、苦しみの中にあるクリスチャンを励ますことができるのです。人は、できることなら苦しみや試練に会うことなく、平穏無事に人生を送ることができることを望みます。しかし、何の苦しみも、悲しみも、困難もないという人生は、この世にはありません。それはクリスチャンである、なしに関わらずです。
パウロがここで言っている苦しみとは、クリスチャンであるがゆえの苦しみです。神のみことばに従って真実に生きる中で経験する苦しみや試練なのです。つまり忠実に信仰生活や教会生活を守り、神と共に歩む中で遭遇する苦しみです。
私たちは、どうして私だけが苦しまなければならないのかとつぶやき、また嘆くことがあります。自分が悪いことをして苦しみに会うのは当然のことでしょう。その場合は、神の慰めを必要としているのではなく、悔い改めを必要としているのです。もし何も思い当たることがないにも関わらず苦難の中にあるなら、その苦難は決して苦しみだけで終わるものでないことを信じましょう。将来受ける栄光に比べれば、それは取るに足りないものであるとパウロは励ましているのです。
私たちが苦難に置かれたときには、その苦しみの意義を知るためには祈りが必要です。そしてその意義を知った時に、神の慰めを受けることが出来るのです。
さらにパウロは隣人の苦しみを共有、あるいは共感する人となるだけでなく、苦しみの中にある人を慰める隣人となることを勧めています。そして、苦しみを背負っているときには神様が私を背負ってくださっていることを思い起こしましょう。
主任牧師 石田敏則