2019年2月24日 巻頭言

私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。

ヨブ記 42章4節

 ヨブは家族や財産を失い、自らも病を得る大きな悲しみを経験しました。その後も、見舞いに来た友人たちから糾弾され苦しみます。しかしその苦しみを通して主の前に遜り、より深い信仰へと導かれます。1章と42章にはヨブの変化が見られます。
 一つは、敵のために祈る者とされたことです。1章では子どもという近しい者のために祈っていたのが、42章では自分を責めた3人の友人のために祈っています(7〜9)。執り成しの祈りの範囲が対立する人にまで広がりました。ヨブ自身の心の成熟も伴ったでしょう。
 もう一つは、人々とのあたたかい交わりに生きたということです。1章では子どもたちは集まっていてもそこにヨブが加わった様子はありません。読み込み過ぎかもしれませんが、潔癖ゆえの近寄りがたさがあったのかもしれません。しかし42章では見舞う人々と一緒に食事をし、人々の好意を受け取る心の柔らかさを感じます(11)。
 苦難は人を成長に導く手段となり得ます。苦難を通れば自動的に練られるのではなく、それをどう受け止めるかが肝心です。人は苦難に遭うか否かを選ぶことは難しいですが、そこから逃げるか向き合うか、苦難にどのような態度で臨むかは自分で選びます。
 苦難を通して成長したヨブにはどのような態度が見られるでしょう。
 一つは「聞く」ことです。ヨブは自分への非難も聞きました。成長する人は聞く人です。嫌な事であっても聞く姿勢を持つ人には大事なメッセージが届くのです。それが成長への気づきをもたらします。
 もう一つは「人との交わり」に生きることです。ヨブが3人の友人と言い争う中で、彼の自己義が顔を出しました。人との関わりの中で、私たちは自分の知らない自分に出会うのです。
 そのような営みの中で、ヨブは主と自分をより深く知るという経験を得、その経験によってヨブは主の前にひれ伏したのです。主はそのヨブに、対立する者のために執り成すことを求めました。主をより深く知る人は主の栄光を現すのです。

担任牧師 荻野泰弘