2019年2月17日 巻頭言

ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。 

ヨブ記 1章1節

ヨブ記の記者はまだ特定されていませんが、ユダヤの古い伝承によれば、モーセであるとか、ヨブ自身が記者である・・という説もあります。ある聖書学者は「特にヨブ記は、人間の感情がむき出しに記されているので、論理的にとらえるというより、ヨブにかかわる人たちや、ヨブ自身の感情に寄り添いながら読むことがよい」と勧めています。
  ヨブは「東の人々の中で一番の有力者」(1章1節)でしたが、短期間に財産・家族のすべてを奪われ、自らの体も打たれ、友人たちも絶句するほどの悲惨な状況に追いやられています。それでもヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1章21節)、「私たちは幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けるべきではないか。」(2章10節)と、試練に対して百点以上の答えを発していますが、この答えが本物だったのか、信仰にブレ、感情にズレはなかったのか・・・ヨブに弱点はなかったのか・・が本日の視点です。模範的な父親像、理想的と見える家庭に課題はなかったのでしょうか。息子たち・娘たちには、信仰面も含めて様々な配慮をしているヨブですが、そこに「妻」の姿が見えません。立て続けの試練の中でも夫婦が共に祈った・・・と言う記述はありません。それに、もしこの書の記者がヨブ自身だとするなら、自分の信仰に対する評価が高すぎると思いませんか。ヨブもそのことに気づいていたのでしょう。3章1節には、すでに自分の弱さを露呈しています。
 あれほど自分の正しさにこだわっていたヨブですが、この弱さの自覚が、後の回復・祝福につながる第一歩であることを、この物語のプロローグから教えられます。

協力牧師 石田いつ子