2021年5月16日  巻頭言

それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

マタイの福音書 2章11節

 マタイの福音書はユダヤ人に宛てて書かれたと伝えられています。興味深いのは、書の冒頭と終わりに異邦人(外国人)を意識した記述があることです。マタイの福音書においてイエス様を最初に礼拝したのは、イエス様を「ユダヤ人の王」と呼んだ東方の博士たちでした。イエス様が十字架で死んだとき「この方は本当に神の子であった」と告白したのはローマの百人隊長でした。そしてイエス様ご自身の言葉「あらゆる国の人々を弟子としなさい」でマタイの福音書は閉じられています。これらが示すことの一つは、主はすべての国の人をご自分のもとに招いているということです。生まれや立場の違いがキリストの救いを分けるのではないということです。
 主は私たちを招いて何を望んでいるのでしょうか?
 それは招かれた私たちが主を礼拝することです。マタイの福音書はまず救い主イエス様の誕生を伝え、続いて東方の博士たちによる礼拝が記されます。つまり、「神の民」「信仰者」の第一は礼拝にあるということです。この書は教会についても語っていると言われますから、教会の中心は礼拝である、とも言えるのです。
 東方の博士たちは礼拝者の姿を示します。昔、バビロン捕囚でユダヤ人がバビロンに連れられたことで救い主待望の信仰も伝わりました。博士たちはそのことを知っていたのです。主は救い主誕生を星によって知らせ、博士たちはその星に導かれました。主が彼らを招いたのです。礼拝者は主に招かれて礼拝に向かいます。
 彼らはイエス様の前に「ひれ伏し」ました。そこで贈り物を「献げ」ます(11)。神の前に「ひれ伏すこと」と「献げること」は、礼拝者が礼拝者であるための大切な心です。この心なしに真の礼拝はささげられません。
 東方の博士たちと対照的な残念な人物を聖書は記します。ヘロデ王です。彼は自分の地位を守るためにイエス様を亡き者にしようとしました。でも彼は口先では「私も行って拝むから」(8)と言います。その心にあったのは主を礼拝することではなく自己実現でした。
 私たちはヘロデのような上辺で生きるのでなく、博士たちのように心が行動に出る礼拝者でありたいものです。

主任牧師  荻野泰弘

5月16日 礼拝順序

第一礼拝  9時 司会:穂谷 牧師   奏楽:荻野(し)兄

前  奏
招  詞 ハバクク書2章20節
会衆賛美 聖歌35
会衆賛美 神の国と神の義を(2回)
主の祈り
交  読 詩篇16篇1~11節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 マタイの福音書 2章1~12節
説  教 真の礼拝者
          荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌40
献  金 
頌  栄 聖歌376
祝  祷
報告
感謝祈祷  奏楽