2024年9月8日  巻頭言

白髪は栄えの冠。それは正義の道に見出される。

箴言 16章31節

 先週の説教ではイザヤ書46章を扱いました。そこには「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う」(イザヤ四六4)との主の語りかけが記されています。
 「白髪」とは老年を現します。イザヤ書は、人間が年老いて自分の足で自由に動けなくなっても、主が背負って支えてくださるということを示します。それだけでなく、地上の生涯を締めくくって天国に至るまで、主は私たちを背負って運んでくださいます。
 その箇所について、ある本では次のように解説されています。
 「しらがは気づかないうちにやってきて、体力も衰える(ホセア七9)。ついには、世の楽しみに何の反応も示さなくなる日が来る(Ⅱサムエル一九35―37、伝道者一二1以下)。老人は、共同社会にとっても無用、無価値の存在となり、疎んじられる。それゆえ、律法によって老人を敬うように教えなければならなかった(レビ一九32)。」(新聖書講解シリーズ旧約14「イザヤ書」228頁/鈴木昌著/いのちのことば社/1989)
 多くの人は、いつまでも若くいたいと願うでしょう。それは、歳を取ることはうれしくないということです。実際に、歳を重ねれば様々なことについて若い時のようにはいかなくなります。体の動きや思考、反応が鈍ります。からだのあちこちが痛くなり、時には重大な病気やケガを抱えます。自分の行く末はどうなるのかと案じ、自分の価値が損なわれていくような不安に囚われるでしょう。
 けれども、聖書は「白髪は栄えの冠」(箴言一六31)と告げます。ここに、人間の視点とは異なる神の視点があります。
 この世の価値観では、生産性が低下する老人を価値が低い存在と見なします。しかし、神の目にはそうではありません。神は人間の価値を、その人が何かができるかできないかでは決めません。私たちが神と共に生きるときに、私たちの内に神の象が回復されて、神の栄光を現す存在としてくださいます。
 巻頭の聖句を新共同訳は次のように訳します。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴言一六31)。私たちが何か活動ができなくても、神は私たちの存在に意義を与え神の栄光を現わしてくださいます。この神に委ねて、導かれるところを進みましょう。

主任牧師 荻野 泰弘

2024年9月8日  聖日礼拝式次第

第1礼拝 9時 荻野牧師  荻野し兄
第2礼拝 11時 武山 兄  榊原 姉

前  奏
招  詞 歴代誌第一16章8、9節
会衆賛美 聖歌651 罪とがをにのう
会衆賛美 鹿のように(2回)
主の祈り 
交  読 詩篇121篇1~8節
礼拝祈祷 
使徒信条 
聖書朗読 箴言16章31節
説  教 白髪は栄えの冠
                荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌273 今日まで守られ
献  金
頌  栄 聖歌376 父御子御霊の
祝  祷
報告 敬老の祝福の祈り
   文書伝道デー 証し

  感謝祈祷  奏楽