2024年9月15日  巻頭言

それから、私に次のような主のことばがあった。
「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうかー主のことばー。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

エレミヤ書 18章5,6節

 私たちの人生には様々な悩みがあり、悩みを抱えるとき私たちは心に葛藤を感じます。。信仰を持っても同じです。むしろ、信仰者だからこその悩みと心の葛藤があるものです。
 皆さんは「心の葛藤」と聞くとどんな印象を持つでしょうか。ある辞書には「葛藤」について次のように書かれています。
 「心の中に相反する動機・欲求・感情などが存在し、そのいずれを取るか迷うこと」
 あまり好ましくない状態のように思えます。特に、信仰者にとっては、道に迷ってどっちつかずのハッキリしない状態、と思えるかもしれません。
 しかし、私たちが成長する上で、実は心の葛藤を抱いて悩むことは必要なことです。
 人間は誰でも、もやもやしたものを抱えたり、悩みながら生きるものです。子どもの時代にはそうした状況を受け止めきれず、また、理解できずに、白黒をハッキリしたがります。けれども、大人は曖昧を良しとする、或いは、グレーなことを受け止めます。過度な葛藤は大きなストレスとなり心を傷つけますが、適度な葛藤は心の成長を促します。私たちの成長に葛藤は必要なことです。
 信仰生活も同じです。葛藤を抱えるとは、信仰者として選択に迷ったり、進む道を悩むからで、それなしに一足飛びの信仰の成長はありません。時に私たちは、葛藤をするのは不信仰であるとか、自分の心が弱いからだと考えることがありますが、そうではありません。神の前に真実で正直だからこそ葛藤するのではないでしょうか。神は、信仰者のそのような心の営みを理解してくださいます。
 冒頭の聖句には神の葛藤が見て取れます。罪を犯して心が離れたイスラエルを神はそれでも愛し、どうにか成長させようと心を砕き、葛藤しているのです。
 私たちが自分の乏しさや至らなさ、あるいは罪に葛藤し、自分では解決できないことを認めて神の前に自らを差し出すとき、神は私たちを聖霊によって造り変えて成長させてくださるのです。

主任牧師 荻野 泰弘

2024年9月15日  聖日礼拝式次第

第1礼拝 9時 荻野牧師  荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野牧師  榊原 姉

前  奏
招  詞 歴代誌第一16章8、9節
会衆賛美 聖歌28 若草の牧場より
会衆賛美 神の国と神の義を(2回)
主の祈り 
交  読 詩篇51篇10~17節
礼拝祈祷 
使徒信条 
聖書朗読 エレミヤ書18章1~10節
説  教 葛藤と信仰
             荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌612 
御霊よ滅ぶる世人のため
献  金
頌  栄 聖歌376 父御子御霊の
祝  祷
報告 
  感謝祈祷  奏楽