2025年12月14日 巻頭言

                  マタイの福音書1章20節

主はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。―主のことばー彼らは敵の地から帰って来る。

 聖書には、どうしてこんなことが起こるのかと感じる記述が見られます。イエス様がお生まれになった時、ヘロデ大王が自分の保身のためにイエス様を殺害しようと企みました。その結果として、ベツレヘムとその周辺に住む幼い子どもたちの命が奪われたと聖書は伝えています(マタイ二16)。イエス様は危機一髪、難を逃れましたが、犠牲になった幼子たちが助かる道はなかったのかと心が痛みます。
 しかし、これがこの世の現実です。私たちは、時に思いがけない事件や事故に巻き込まれたり、人生には理不尽な事柄に苦しむことがあるものです。
 そんな私たちに救いの道を開くため、イエス様は理不尽さや不条理に満ちたこの社会に生まれ、人としてこの世界を生きてくださいました。イエス様は、この世界に身を置き、人の痛みや苦しみを知り、共に背負ってくださっています。その究極が十字架です。
 ベツレヘムで幼い子どもたちの命が失われた時、それはイエス様が彼らを見放したと
 
いうことではなく、彼らの叫びを聞き、痛みを共に背負われたということです。
 ラマとラケルは、イスラエルの悲しみの象徴でした。ラケルはイスラエルの祖先ヤコブの妻で、二人目の子どもを出産したときに命を落としました。愛する家族と死に別れる悲しみと痛みです。そのラケルが葬られた町がベツレヘムでした。ラマはベツレヘムの近くにある町です。そこはバビロン捕囚の時代、イスラエルの人々が遠くバビロンへ連れ去られるために集められた場所です。国が滅び、自分たちの尊厳が踏みにじられ、将来に不安を抱きつつ人々は旅立ちました。かつてエレミヤはこれらのことを思って嘆き、しかし神は彼に慰めを語り、回復を約束されました。私たちの救い主は、決して私たちを見放しません。助けを求めても答えがないと思えるとき、主は共に傷ついておられます。共にいて慰めてくださる主を見上げましょう。(泰)

牧師 荻野泰弘

2025年12月14日 アドベント第三聖日礼拝 式次第


小礼拝  9時  荻野牧師
聖日礼拝 11時  中西と兄 榊原姉

前  奏 
招  詞 ゼカリヤ書2章10節
会衆賛美 新聖歌68 久しく待ちにし
会衆賛美 Christmas is a time to love
主の祈り 
交  読 詩篇9篇1~14節
礼拝祈祷 
使徒信条 
聖書朗読 マタイの福音書2章1~18節
説   教 世の痛みを共に背負うイエス様 荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌74めさめてたたえまつれ
献  金
頌  栄 聖歌376  父御子御霊の
祝  祷
 報告
 後奏 感謝祈祷