2022年3月27日  巻頭言

アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

創世記 22章14節

 「神様はどうしてこのような経験をさせるのか…」と思うことはクリスチャン誰でもあるものです。願いが叶わずつらく感じることや不幸と思える事に遭遇したり、或いは大切な人との地上での別れ…など。すべてが思う通りになるとは思わない。でも、もう少しなんとかならないものですか、と嘆くことがあります。
 「あなたが愛しているひとり子イサクを…献げなさい」(1)と告げられたアブラハムの胸中はいかばかりだったでしょう。
 その神の言葉に従ってアブラハムは示された地モリヤを目指しました。ベエル・シェバからモリヤは登り道です。その足取りはどれだけ重かったことでしょう。かつて、 神様はイサクによってアブラハムの子孫を祝福し繁栄させると約束されました。神の約束と目の前の厳しい現実をどうしたら折り合いを付けられるか…。理性では理解しきれずに戸惑うばかりだったでしょう。 その状況でもアブラハムはただひたすらに「神ご自身が…備えてくださるのだ」(8)と主にお頼りしています。それは盲目的な思い込みではなくて、これまでの自分の信仰の足跡を振り返りながら、人間の思いを越えて神様は働かれたという事実に基づいた神への信頼です。アブラハムは神が示された地に「目を上げ」(4)続け、そしてみことばに従い続けました。その先で彼が「目を上げて見ると」(13)そこには主の助けが備えられていたのです。
 モリヤの地、そこはのちにイエス様が十字架に架けられる場所です。そこは、神ご自身にとって理不尽極まりない場所です。人間の罪のために、罪のない神の子を十字架に架けたのですから。理不尽と思うような経験をするとき、神が私たちのために理不尽な十字架を経験されたことを思い出しましょう。私たちが理不尽な現実に苦しむとき、神様は十字架の苦しみの故に共感してくださるのです。そして私たちに逃れの道も備えてくださいます。アブラハムが神の言葉に従い抜いたときに、彼は神の救いを経験しました。私たちは十字架と復活が聖書が伝える歴史的な事実であることを根拠として主に信頼しましょう。そこに人間の理解を超えた神の大いなる救いを知る道があるのです。

主任牧師 荻野 泰弘

2022年3月27日  聖日礼拝式次第

第1礼拝 9時  穂谷牧師 荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野牧師 美名子姉

前  奏
招  詞 イザヤ書45章22節
会衆賛美 聖歌392(1,2節)
会衆賛美 イエスの血潮で(1回)
主の祈り
交  読 詩篇103篇15~22節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 創世記22章1~19節
説  教 目を上げて見る
            荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌396(1,4節)
献  金 
頌  栄 聖歌376
祝  祷
報 告
後  奏 感謝祈祷