2022年4月10日  巻頭言

パームサンデー

見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。
荷ろばの子である、子ろばに乗って。

マタイの福音書 21章5節

 イエス様は十字架に架かる週の初めの日(日曜日)にエルサレムに入りました。ですから、それは十字架へと続く苦難の道でした。神の御子が罪人を救うためにご自分を低くし、それを象徴してろばの子に乗って進みました。
 この時、群衆はしゅろの葉を振りながら熱狂的にイエス様を迎えます。まるで戦いに勝利を収めて凱旋する王を迎えるようで、十字架の苦難とは不釣り合いな光景です。
 群衆の賛美の声(9節)は、詩篇のことばでした(詩篇118篇26節)。イエス様は、この言葉が本当の意味で人々から発せられるのは、世の終わりの時、再臨の時だと告げました(23章39節)。エルサレム入城における群衆の歓喜は、実は「神の時」にかなっていなかったということです。
 この時、イエス様が人々に求めていたのは「悔い改め」です。12節以降に記される「宮きよめ」の出来事は、そのことを物語ります。イエス様は人々を愛すればこそ問い掛けるのです。自らの行いを省みて神に立ち帰りなさい、と。それなしに祈りだ、みことばだと言っても、そこに神の業は現れないのです。
イエス様を迎えた群衆が「神の時」を見誤ったのはなぜでしょうか?それは、神の御心に生きるよりも、実は自分の計画や願いを神に押しつけたからです。表面的には主を高らかに賛美し、イエス様に敵対する祭司長たちとは対照的です。しかし、群衆は自分の時、自分の計画を明け渡していませんでした。それ故に、自分の思う通りにならないと怒りをぶつけるのです。それが十字架でした。イエス様は人間のそのような身勝手、罪を背負ってくださいました。
 私たちは、今がどういう時かを弁え、見誤らないように気をつけなければなりません。自らを省みる時、悔い改める時があるのです。それは忍耐を必要とします。
 十字架に架かる前夜、ナルドの香油をイエス様にささげた女性は神の時を弁えました。彼女はイエス様の埋葬の準備として香油をささげたのです(26章6~13節)。 静かに主に仕える姿はイエス様を喜ばせました。神の時を弁えた行動は神の喜びとなります。それは時代を超えて人々の心に良き香りを届ける証しとなるのです。受難週は十字架の前に自らを省みる時です。

主任牧師 荻野 泰弘

2022年4月10日  聖日礼拝式次第

第1礼拝 9時  穂谷牧師 荻野し兄
第2礼拝 11時 荻野牧師 美名子姉

前  奏
招  詞 詩篇32篇8節
会衆賛美 聖歌399(1,2節)
会衆賛美 御手の中で(1節)
主の祈り
交  読 イザヤ53章1~12節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 マタイの福音書 21章1~11節
説  教 エルサレム入城
            荻野泰弘牧師
会衆賛美 聖歌111(1,3節)
献  金 
頌  栄 聖歌376
祝  祷
報 告
感謝祈祷  奏楽

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