2023年4月16日 巻頭言
「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい。主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」(15節)
ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(17節)
ヨハネの福音書 21章15~21節
2月19日の礼拝で「あなたがたはわたしに会える。わたしが生きるので、あなた方も生きてくる」(ヨハネ十四1819)の聖句から、『イエスは生きておられる』ということを現実的な事実として経験するためヨハネ二十一章 前半から学んだ。❶主イエスはご自分が生きていることを知らせるため岸辺に立った。❷イエスは弟子たちのため湖畔に食事を準備された。
それらは、真の愛の交わりを回復してキリストの証人としての使命に生かすためだった。
今朝はヨハネ二十一章の後半から、「わたしが生きるので、あなたがたも生きてくる」と言われたペテロに、主がどのように取り組まれたかを見る。イエスの愛・ペテロの愛・ペテロの心の痛みの三つを取り上げる。
第1は、ふたりの愛の相違。イエスが一、二度目に問うた愛はアガペー(神の愛)。ペテロの答えはフィレォー(人情的愛)。三度目はイエスもペテロと同じフィレォーの愛だった。
イエスの求めとペテロの答えには相違がある。人間が神に逆らい、罪に破壊されたゆえに、ペテロは神の愛を持ち合わせていなかった。
そこにはペテロの「心の痛み」がある。イエスは三度目の愛をフィレォーの愛で問われた。イエスが自分の目線まで降りて問いかけた優しい愛。その愛にもフィレォーでしか答えられない。イエスを見捨てて逃げ、イエスを知らないと拒否した痛み、自らの実質を知らされた痛みだった。
第2は、一つの心と思い。以前、イエスがエルサレムで十字架に死に三日目によみがえると予告した時、ペテロはイエスをいさめたが、イエスは「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ十六23)と叱責した。私たちの信仰の心は、どちらが占めているか。それともどちらにも傾く優柔不断の心か。ペテロに見られる相反する心の戦いは私たちへの問いかけである。
第3は、愛に生きる人。後年書かれたペテロの手紙は、「愛」はすべて「アガペー」の愛。宛先の教会は「イエス・キリストを見たことはないけれども愛(アガペー)に満たされていた。「十字架は神の愛の至高の表現」。聖霊の御業。主は、ご自身への愛を今も問うている。
田中 英 師
2023年4月16日 聖日礼拝 式次第
第1礼拝 9時 荻野牧師 荻野し兄
第2礼拝 11時 武山兄 髙橋美姉
招 詞 イザヤ書43章19節
会衆賛美 新聖歌257 キリストは生きておられる
会衆賛美 神の国と神の義を
主の祈り
交 読 詩篇16篇1~11節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 ヨハネの福音書 21章15~22節
説 教 問われた愛
田中 英 師
会衆賛美 聖歌111
献 金
頌 栄 聖歌376
祝 祷
報告
後奏 感謝祈祷