2020年2月23日 巻頭言

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。」 

マラキ書 3章10節

 「マラキ書」と言われて「あぁ、什一献金のことを教えている書」と分かるのは、それなりに聖書を読んでいる方では。
 旧約最後の預言者として立てられたマラキはエズラやネヘミヤと同時代の預言者で、エズラやネヘミヤが礼拝儀式や政治上必要な改革を手がけたのに対して、マラキは人々に霊的問題、人々の罪の姿を指摘しています。
 それは、第一に不敬虔な形式的宗教でした。神への捧げ物に質の悪いものを捧げて平気でいる。汚れたパンでも、傷ついた動物の犠牲でも、礼拝も顔を出しておけばよい。形式だけ整っていればよいという姿勢です。
 第二は道徳的低下です。異教徒と交わり、神殿の中で不道徳な行為を行なっていたことです。「時代が違う。そんな堅いことを言っても世の中で受け入れられない」と、すっかりこの世に染まってしまい、地の塩の役目を果たそうとも思わなくなってしまったことです。
 第三は懐疑主義です。神を信じることが何になるのか…と、信仰そのものに懐疑的になる。
 そして、なににも増して神が心を痛められたのは、民の開き直った態度でした。
 このような民に神は「試してみよ」と仰いました。この「試してみよ」ということばは、神への挑戦としての試みよりも、私たちの信仰に対するチャレンジです。神に全面的に従うことはある意味で冒険です。この「試してみよ」と言うことばには、その試練を乗り越えれば祝福を与えるという、神の特別な約束が込められているのです。ただ、人間に対する愛とあわれみの故に、私たちに祝福を与えようと語られたのは、特別な神の取りはからいなのです。

主任牧師  石田敏則