2020年2月16日 巻頭言

おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。 

オバデヤ書 15節

神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもするようになります。 

ガラテヤ人への手紙 6章7節

 オバデヤについては出身や系図などは知られていません。ただ何を預言するように召されたかは明白。それは、エドムに対する神の徹底的なさばきです。エドムの子孫は、エサウ。長子の権利を侮り、双子の弟ヤコブに、一杯の煮物と引き換えに渡してしまった、あのエサウです(創25)。本書では、「エサウ」と「エドム」は同義語として示されています。そのエサウの人間性は、アダムから続く人間の本性を受け継ぐ生まれつきの人間の型だと言われています。すなわち私たちの内にある古い「自我・肉」の型です。本日は、エドムに見るその型がどのように表れているか、それを神はどう扱われたかをみていきます。そして、私たちにエドム的要素がないかも点検しましょう。エドムは自分が蒔いたものを刈り取ることになり、歴史から、その名が消え去ります。ヤコブの子孫も、神の審判を受けましたが、逃れの者(17節)のゆえに、約束の回復が与えられます。このことも私たちの信仰の姿勢に当てはまります。不信仰を繰り返すどうしようもない者だけれど、神を仰ぐ姿勢が残っていれば、回復が与えられるのです。ガラテヤ人への手紙6章は、こう続きます。「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者には御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(8節)
 私たちは、何のために蒔き、何を刈り取る者になればいいのでしょうか。答えは明白です。
1章しかない小預言書は、私たちに多くを語ります。

協力牧師  石田いつ子