2024年10月27日  巻頭言

「イエスは、いばらの冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。『見よ。この人だ。』 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、『十字架につけろ。十字架に付けろ』と叫んだ。」

ヨハネ福音書 19章5節

 今朝のお話の題は『見よ。この人だ』です。イエスは捕縛されて大祭司からローマ総督ピラトの官邸に連れ出されました。ピラトはイエスを尋問しましたが、罪が認められません。しかし、ユダヤ人たちは認めません。その時、ピラトは彼らの前にイエスを連れ出し叫んだのが、この「見よ。この人だ」です。
 ピラトは彼らの訴えの裏には、彼らの心の内にある「ねたみ」があると見ました。キリスト教信仰の入り口は「罪」とは何かを知ることです。私たち一人一人の内に在る『罪の事実・実在』です。
 聖書は「罪」を神との関係に於いて扱います。まず「神とはどのような方か」。ある方は「神はキリストのような方です」と簡潔に答えています。主イエスは「わたしを見た者は、神を見たのです」と言われました。主イエスを知れば神を知るのです。『私たちの内に在る罪の事実・実在』は、主イエスに対する「ねたみ」という罪です。ピラトのような人間でも見抜けたのです。その罪は、彼らの時代の人も今の私たちの人間の心の内も五十歩百歩だとわかります。
 まず、ねたみと言う罪の恐ろしさです。その罪が彼らをしてキリストを十字架にかけて殺害したのですから。
 ある方は、聖書の「神はいない」とは、『神を離れた人間の特徴は、その生涯を通じて、いつも神を忘れている』と。「ねたみ」が神を忘れさせる。心の内にあるねたみという罪は、それほど深い罪に支配されているのです。
 更に、ねたみは、ゆがんだモノの見かた、間違ったモノの見方をする。神への愛と隣人への愛を旨とされた神の律法は、罪なき人を罪人として殺害できると解釈したのです。ある方はそれを『愛の死』と言っています。私たちは『この事実は自分のありのままの姿を直視すれば、罪の恐るべきことを直ちに気づくはず』です。
 結び、ピラトは彼らに「見よ。この人だ」と言いました。この人こそ、十字架に架けられ、祈ろうにも祈れない中で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのか、わかっていないのです。」私の罪の代価を自らの身に負われたのです。「見よ。この人を」。心の目は、ただこの一点を見つめ心に刻もう。

 田中 英 師

2024年10月27日  聖日礼拝式次第

第1礼拝 9時 林伝道師  荻野し兄
第2礼拝 11時 吉田潔兄  髙橋美姉

前  奏
招  詞 ヨハネの黙示録19章5節
会衆賛美 聖歌631 罪に満てる世界
会衆賛美 イエスの血潮で(週報4面)
主の祈り 
交  読 詩篇50篇7~15節、23節
礼拝祈祷 
使徒信条 
聖書朗読 ヨハネの福音書 19章1~16節
説  教  見よ。この人だ
                田中 英 師
会衆賛美 新聖歌99(週報4面) まぶねの中に
献  金
頌  栄 聖歌376 父御子御霊の
祝  祷
報告 
  感謝祈祷  奏楽