2019年10月6日 巻頭言

「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」

イザヤ書 6章5節

 イザヤは約60年の長い間、南王国ユダで預言者として働きました。イザヤは、ウジヤ王が死んだ年に、国の将来を案じて神殿で祈っていたとき、栄光の主を見ます。そしてセラフィムが歌う賛美を聞きました。こうして彼は神の臨在にふれて、神の召しに応じます。この聖なる神というメッセージはイザヤ書全体を貫くテーマです。彼は、神が聖なるお方だと示されました。私たち人間や他の一切のものとは全く質の違ったお方だというのです。
 イザヤは聖なる神さまの臨在にふれた時、自らの実質を知らされます。この時イザヤは預言者として働いていたのです。彼は貴族の一人で、自分が神の代理者として民を教え、導かなければならないという思いを抱いたに違いありません。しかし、イザヤは自分もこの国の人々と同じで、繁栄の中で腐敗・堕落にどっぷりとつかっている罪深い者であり自分が真先に神の裁きを受けて滅びる者だと自覚したのです。
 その時、セラピムが祭壇の炭火を持ってきてイザヤの口に触れさせたのです。神は 火、聖なる霊をもってイザヤの汚れを清めてくださり、彼を預言者としてもう一度、立たせてくださったのです。
 イザヤは神のために働きたい、神に使っていただきたい、神を喜ばせたいという気持ちに満たされました。神のためなら、どんなことでもやります、という気持ちです。自ら手を挙げて、神のために、神を喜ばせるために行動を起こしてください。神はそういうあなたを決してがっかりさせることはありません。「私のために行くものはないだろうか」との主の声を聞いたなら。私がここに居ります。と答えたいものです。

主任牧師  石田敏則