2024年11月24日 巻頭言
「群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」
マタイの福音書 9章36節
今朝はマタイ福音書九章の終わりの部分から「キリストの心の痛み」と題して、私の心に深く刻まれたみことば「深くあわれまれた」の部分を中心にお取次ぎします。私自身が「キリストの心の痛み」を知ることによって、如何に応答すべきかを問われてきたからです。
まずはじめに「群衆を見て」。この「見て」、ヘブル語法では『よく(確かに、実際に)見る』と知りました。イエス様の御目は前節三五節を読むと、一人一人に接して「羊飼いのいない羊の群れが霊的飢饉にあるのを見て『深くあわれまれた』」のでした。この情景を見ていて私に対する神の深いあわれみの感情に驚くばかりです。
次に「群衆を見て深くあわれまれた」。あわれみについてはかつて話しましたが、あわれみを表わすヘブル語「ラハミーム」という言葉を知りました。「ラハミーム」は「胎」を表わすヘブル語の「ヘム」から派生したものと考えられるとあり、「母の胎から出たわが子への切っても切れない愛と思いやりの感情」と教わりました。
「まさに神のあわれみは、神の愛の無限の偉大さの結果(現われ)である」と。
神のあわれみを詩篇七八篇三八節に見ます。逆らい続ける神の民でしたが、「あわれみの神は彼らを赦して滅ぼさず…」。この節の注釈に「神は忍耐とあわれみのうちに、民の悔い改めるのを待っておられる」とありました。これは、神の「聖・義・愛」のご性質にあります。聖と義の神は不義の赦罪は出来ず、愛は赦罪しようとします。そこに神が御子をこの世に遣わされて、十字架の贖いの代価によって赦しを可能にされたのです。
三六節の「あわれみ」の意味は、「はらわた」です。「他者の苦しみを、まさに自らのはらわたが引きちぎられるかのような痛みとして受けとる」と教わりました。イエス様が目にされた群衆を見て、そのように受け留められたとは驚きであり、私自身への思いと受け取ります。神のあわれみの中に生かされている幸いです。
イエス様は「祈りなさい」と言われました。祈りの究極は、ラハミームの神との合一の経験としての理解から祈りの要請に答えます。
田中 英 師
2024年11月24日 礼拝式次第
第1礼拝 9時 林伝道師 荻野し兄
第2礼拝 11時 武山 兄 髙橋美姉
前 奏
招 詞 イザヤ書49章13節
会衆賛美 聖歌319 飼い主なる主よ
会衆賛美 神の国と神の義を
主の祈り
交 読 詩篇23篇1~6節
礼拝祈祷
使徒信条
聖書朗読 マタイの福音書 9章35~38節
説 教 キリストの心の痛み
田中 英 師
会衆賛美 聖歌431 九十九匹の羊は
献 金
頌 栄 聖歌376 父御子御霊の
祝 祷
報告
感謝祈祷 奏楽